周囲に気を使いすぎて疲れてしまったとき

投稿日:2018年11月6日      更新日:

 

人付き合いの時に周囲に気を使いすぎて疲れてしまうようなことはあるでしょうか?
気の合う人同士との付き合いであれば、疲れるようなこともないかもしれませんが、あまり馴染めていない環境だったりすると、ときに苦痛に感じるようなこともあるかもしれません。例えば、素の自分を出すのが苦手で周囲に無理に合わせているようなところがあったり、周りの目を気にしすぎて肩に力が入りすぎているようなところがあると、そこで余計に疲れてしまうようなこともあるかもしれませんね。

人付き合いの中で、ある程度の緊張感であったり、ある程度の気遣いというのは求められるものかもしれません。距離のある人間関係の中では、なんでもあり、というわけには行かないですし、円滑にコミュニケーションを進めるために、最低限気を配らないといけないところというのは、状況によって出てくると思います。

ただ、素の自分とのギャップが大きくて無理をしているようなところがあるほどに、人間関係の中で感じるストレスは大きくなっていきます。人間関係の中で、〜でなければならない、といったことを考えているような部分があって、それが素の自分の振る舞いと大きく異なるほど、苦痛は大きくなります。例えば、もともと大人しい性格なのに、無理でも明るくしなきゃいけない、と思っていたりとか、本来は広く浅く付き合うよりも狭く深く付き合う方を望んでいるのに、その環境の中では頑張っていろんな人と仲良くしなきゃいけない、と思っていたりなど。本当は言いたいことをなんでも言い合うようなやりとりを望んでいるのに、その環境の中ではなるべく言わないようにしたり、過剰にオブラートに包まなくてはならないと思っていて、そこにいるだけで息が詰まりそうな感じがしている、なんていうケースもあるかもしれません。本来の自分のあり方とは離れた、〜でなければならない、といった、自分自身に当てはめている、あるべき論、にはどんなものがあると思えるでしょうか?

自分を追い込むようなところはあるでしょうか?
あるべき論、を使って自己否定をしたり、自分を追い込むようなところがある方の場合、誰かに何かを言われなくても、自分で自分を追い込むことで疲れ切ってしまうようなことがあります。

自分を追い込む言葉、、、、例えばこんな感じでしょうか?
「本気でやったらできるはずなのに、できないってことは、はじめからやる気がないんでしょ?」
「やるべきだと思っているのなら、なんでやらないの?」
「やるべきだと思っているならやるはずだよね? やるべきだということを本当は理解していないじゃないの?」
「危機感ないの? やばいという自覚がないの?」
「やったほうが自分の為にもなるよね? 自分の為になることをなんでやろうとしないの? どうでもいいの? 考えたくないの?」
自分で書いてて「ストーップ!」って言いたくなります。言葉のひびきが若干厳しげな感じかもしれません。

自分を追い込みすぎることで疲れ切ってしまっているようなところがあるのなら、自分を追い込むのを止めて、あるべき論を手放していったほうが良いです。
それは、本当にしないといけないことでしょうか?
やらなかったら、本当にやばいことでしょうか?
自分が抱えている、あるべき論。それ自体に疑問を感じることもときには大切かもしれません。

あるべき論よりもむしろ、素の自分ってどんなものだろう、というほうに目を向けるとしたら、どんな姿が思い浮かぶでしょうか?
本来の自分のありのままの姿。あるべき論よりも、ありのままの自分を軸にして物事を考えるとしたら、自分を追い込む言葉よりも、自分のやりたいことや、自分にとって居心地の良い状況、それらを受け取るにはどうして行くのが良いのか、といったことのほうが重要になっていきます。

ありのままの自分、と言われてもピンとこない方もおられるかもしれません。人には多面性があり、好きになれる部分や、自分でも嫌っている部分があったり、自分でも認めたくないような部分があったりするかもしれません。ありのままの自分って何、って考えるとよくわからなくなるような方もおられるかもしれません。

ありのままの自分、というのがイメージしにくかった時の参考になれば、と思うのですが、例えば、自分にとって居心地の良さを感じている状態や、ストレスを感じていない状態、、、、あるいは、好きなことをしていたり、何かを楽しんでいたりするときの自分の状態を想像してみてほしいです。何かに縛られることなく、肩の力を抜いてリラックスして自由な状態。そんな時の自分自身のありようが、ありのままの自分の姿、と考えてみてください。

居心地の良さを感じている姿を想像してみてください。それはどんな状況で、あなたは何をしているでしょうか?
その光景を想像してみた時に、そのありのままの自分の姿をみて、何を感じるでしょうか?
ありのまま、というのは、何かを取り繕う必要もなく、何かを隠す必要もない状態です。あなた自身が一番楽さを感じれる状態を想像してみてください。居心地の良さを感じていて、楽で、最も自然でいられる状態の時のあなた自身のあり方。それを、あなたのありのままの姿、と考えてみてください。

ただ、罪悪感や無価値観を慢性的に感じていて、心の中にずっともやがかかったような状態だと、そんな自分のありのままの姿を想像することが難しいこともあるかもしれません。過去の私の話をすると、ありのままの自分とかどうでもよくて、まずは、ダメな自分をどうにか矯正しないといけない、と考えていました。心の中に罪悪感のようなものが巣食っていて常にそれに縛られていたため、成長しなきゃいけないって、自分を常に駆り立てようとしていて、ありのままの自分だなんて言われても、そもそも今のままでは全然ダメだろうって思い込んでいました。心の中に巣食っていた大きな罪悪感のようなものを手放すことができた時、すごく楽さを受け取ることができて、そこで初めてありのままの自分を見れるようになりました。過去の私と近しい感覚をお持ちの方は、もしかしたら、まずは罪悪感を手放すこと、が大切になってくるかもしれません。

自分自身が様々な経験をしたり、年齢を重ねたり、成長をしたり、あるいは、何かを手放したり、何かを受け取ったりしていく中で、物事の感じ方や受け取り方には変化が出てきます。そうすると、どういう状態が一番居心地がよくて、何が楽で、どういうのが自分にとって最も自然なのか、ということに関して、、、、自分にとって、ここが今一番ちょうどいいポイント、というのはちょっとずつ変化していきます。過去の自分にとっては、これがありのままだ、と思っていたところも、今の自分にとっては、変わってきているかもしれません。

ありのままの自分、というのは、停滞してずっとそこにあるような性質のものではなく、常に少しずつ変化しているものだと私は思っています。自分にとって、ここが原点だ、と定義しているようなものを心に持っている方もおられるかもしれません。ただ、それをずっと抱えていくのも、変えていくのも、その人自身のありようだと思っています。自分がどうしたいか、ということと、ありのままの自分、というのは密接に繋がっています。

だから、ありのままの自分でいたい、と思うのであれば、何かをするときに、自分がどうしたいのか、という所をよく押さえておくことが求められてきます。過去の自分ならばいつもこうしていたから、という延長線上に、必ずしも、自分のちょうどいいポイントがあるとは限らないです。人間関係においても、昔はこの人達とすごく気があったけれども、今は別の人達と一緒にいる方が居心地が良い、という経験をされたことのある方もおられると思います。夫婦関係でも、昔はこういう風にしていてそれがお互いにとってちょうど良かったけれども、今は、こういう風にしている方がお互い楽、というように、お互いがありのままで居心地良くして行こうという時には、変化、がときに求められて来るものだと思っています。そこで、過去のやり方にこだわりすぎると、なんとなく、無理矢理感や退屈さや停滞感が出て来ることもあります。

ある意味では、ありのままの自分、が変化していくようなもの。何もしなくても、周囲の環境がそこに同調してくれるとは限らないので、そこに自分がやりたいことや方向性のようなものが生まれて、やりたいことをやっていくことで、ありのままでいるための自分のポジションのようなものを作っていく、ということが大切だと思っています。

ありのままの自分と、実際に自分がしている振る舞いのギャップが大きくて無理をしているようなところがあるほどに、人間関係の中で感じる疲労度は大きくなっていきます。そこで疲れ切ってしまっている感覚があるのなら、自分の中のあるべき論よりも、自分がなるべくありのままの姿でいられる、という方を優先してください。

自分の中に存在するあるべき論。それは本当に必要なものでしょうか? 本当にやらなきゃいけないものでしょうか?
それよりも、あなた自身が自然に振る舞うことの方が、今は大切になってきていないでしょうか?
疲れ切ってしまっている、というその感覚は、あなたにそのことを今教えてくれてはいないでしょうか?

あるべき論というのは、ある意味では、あなたの中で、人間関係をうまく渡っていくためにあなたが作り上げたルールのようなものかもしれません。もし、あなたがそこで疲れ切ってしまっているのなら、そのルールには無駄がたくさんあります。それは過去のルールであり、今のあなたを生かすものではないです。あなたが楽になるために、あなた自身のために、そのルールを手放すという選択をしてあげてください。その代わりに、あなたが自然体でいられて、なおかつ、あなたがそこの人間関係の中で様々なことをあなたなりのバランス感覚でより良い状態に持っていくための新しいやり方を考えてみてください。

疲れ切っているときは、今の自分のやり方やあり方に無理がある、ということを意味しています。古くなってしまっているやり方、あり方、ルールのようなものを、一度見直してあげてください。ありのままの姿が一番楽で、あなた自身を一番活かしてくれます。いかにありのままの姿でいられるか、あるいは、ありのままの姿に今よりももっと近づけるか、にこだわってみてください。

 

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