
いい人や優しい人でいることで、損をしているように感じてしまうとき。その感覚の背景を、自分の価値や内側のルールという視点から掘り下げます。
【目次】
・いい人や優しい人でいるのに、損をしているように感じるとき
・軽く扱われる感覚を、自分の問題にしすぎないために
・自分の価値を低く扱っているときに起きやすいこと
・優しさと引き換えに、自分を犠牲にしていないか
・行動の軸になっている「内側のルール」という視点
・ルールの裏に隠れている罪悪感の例
・いい人であることを、自分をすり減らす形にしないために
いい人や優しい人でいるのに、損をしているように感じるとき

周りにいい人とか優しい人と思われていそうだけれど、それで何か損をしているように感じることはあるでしょうか?
人にすぐに気をつかってしまうようなところがあって、何かあっても言い返せなかったり、頼まれたことを断れなかったりする場合、人によっては、そう感じるような出来事に遭遇することがあります。
例えば、周りは自分にあまり気を遣っていないように思えたり、自分の意見や希望はちょっと後回しにされているように思えたり、気づいたら面倒な役割が押し付けられていたり、、、、といった感じでしょうか。
周囲を見渡してみたときに、自分の都合や気持ちばかりを優先して何も気にせずに生きている感じに見える人がいると、自分が損をしているように思えることはあるでしょうか?
なんだか自分ばかりに損な役回りが回ってきているように思えたり、誰かから下に見られているように思えたり、利用されているように感じたとしたら、
「いい人とか優しい人、というのは、人生で損をする」
と思えてくることもあるかもしれません。
軽く扱われる感覚を、自分の問題にしすぎないために

いい人とか優しい人と思われていることで、人から軽く扱われるようなことがあったときに
「私は軽く扱われる人なんだ」
と感じてしまうことも、もしかしたらあるかもしれません。
ただ、これはちょっと気をつけた方がいいことなのですが、
「あなたが軽く扱われる人」というより、
「あなたを軽く扱う人がいる」という困った状況がある、
という視点で物事を見た方がベターです。
私=「軽く扱われる人」という認識は、自分はそういう扱いをされる価値の人間なんだ、と思っているかのようです。もし、そうなら無意識のうちに「あなたを軽く扱う人」にあなたが同調してしまっているということを意味しています。
「軽く扱われる」というのはあなたのキャラや人間性の話というより、あなたをそう扱う人がいるという、とても心が疲れる環境があるということ。
あなたを軽く扱う人に同調してあげる必要は基本的にないのですが、もし、自分自身の経験上、そういう体験がちょっと多いように感じるのだとしたら、自分の振る舞いに何か変えた方が良いところがあるのかも、という視点を持つのはありかもしれません。
パートナーや友人から雑に扱われていると感じるときのことを掘り下げて書いた記事がありますので、参考にしてみてください。
自分の価値を低く扱っているときに起きやすいこと

自分の価値を低く扱っていると、こういう「軽い扱いをしてくる人」に思わず同調してしまいやすくなります。自分が低く扱われるような出来事もやってきやすくなります。
そういう人も、そういう出来事も、全くもってウェルカムじゃないとは思うのですが、ありがたくないことに勝手に向こうからやってきます。
自分の内面と自分が体験することが連動する、といった性質が人のマインドにはあるためです。
いい人や優しい人というのが「自分の価値の低さを埋め合わせるために犠牲をする」という感じになってしまうこともあります。もちろん、そんなことをしているつもりはないかもしれませんが、自分の価値を低く扱っていると、そういった心理が生まれたりします。
大切なのは、無価値感を手放して、自分の価値を受け取ること。
自己肯定感が低くて辛い時のことを掘り下げて書いた記事がありますので、参考にしてみてください。
優しさと引き換えに、自分を犠牲にしていないか

損な役回りを変えていくための鍵となるのは優しさを手放すことというよりも、自分がどうしたいのかを軸にして考えてみたときに
「自分を犠牲にしているような部分はないか?」
という問いです。
自分を軽く扱う人に、同調しないこと。自分を利用しようとするマインドに、同調しないこと。そういう他人の声よりも自分の内側の声に耳を傾けること。
「私どうしたいだろう?」
大切なのは、優しくしてもお人好しにはならないということかもしれませんし、自己主張する、ということかもしれません。
行動の軸になっている「内側のルール」という視点

自分の中に正しさだったり、人からどう見られるかということを重要視しているのなら、我慢することや、あえて自己主張しないことが自分の中でルールのようなものになっていることもあります。
ただ、その場合、そのルールの裏に心の痛みが隠れていることがあります。
自分のマインドとして、そうしたいからそうしているというよりも、そうするべきだからそうしている、という感じだと、「私どうしたいだろう?」を軸としているというより、ルールが軸になっている、と言えます。
ルールが軸になっているのなら、それはどんなルールなのか、というのをあえて言語化して観察してみること。ルールを当たり前のものとして扱うというより、一歩引いた目で自分のルールを見てみること。
「そういえば、どうしてこのルールが私のなかで決まっているのだろう?」
ルールの裏にある心の痛み。例えば、罪悪感、があるかもしれません。
ルールの裏に隠れている罪悪感の例

これはあくまで一例ですが、例えば、父親がすごく怒る人だったとして、幼少期にその怒っている父親の姿を見て、心の中ですごく父親のことを責めた人がいたとします。ただ、自分も怒りを感じることはあるので、そんな自分も許せなくて怒ることに対しての罪悪感が生まれ、心の内側にとても強制力の強い「怒るべきではない」というルールができたとします。
この人は大人になってからもそのルールを守り続けます。この人は何があっても怒らないです。その性質を見抜いた意地悪な人がひどいことを言うことがあっても、この人は怒りを誤魔化す感じでへらへらしています。
へらへらしているけれども、内心は決して穏やかではないわけです。もちろん心の中ではめっちゃ頑張ってます。怒らないように。だってそれは、やるべきではないことだから。
そうすると人の心理と人生の流れというのは実にいじわるなもので、
「はよ怒れ!」
と言わんばかりに、あえて怒ることが課題であるかのように、イライラするような出来事が次々にその人のもとに試練のように訪れたりします。
一つの例として「怒らないことをルールにした人」のことを書きましたが、こんな感じでルールの裏に罪悪感が隠れていることがあります。
そしてもし、罪悪感があるのなら、それを手放してあげることが求められてくるかもしれません。
ルールで自分を縛るのではなく、自分がどうしたいのかを軸としていくこと。
そうすると、人生で損をしているのかどうかというより、自分がどうしていきたいのか、あるいは、どんな風に自分の周囲に良い影響を及ぼしていきたいのか、という視点で物事を見ていくことになります。
いい人であることを、自分をすり減らす形にしないために

いい人だけど損をする、というテーマで掘り下げて書きました。人に自然と優しくできるということであったり、人当たりが良いということは、無意識のうちに人との関係を大切にしてきた証なのかもしれません。
ただ、それで損をしているような感覚があるのなら、ちょっと自分の内側にあるものを見つめてみること。
無価値感があるのなら、自分の価値を低く見ている部分を手放して、自分の価値を受け取ること。
損な役回りを変えていくには、犠牲的な部分を手放して自分がどうしたいのかを軸にしていくこと。
いい人としての役割のようなものがルールとして自分を縛っているのなら、そのルールの裏にどんな心の痛みがあるのかを見て、その部分を手放してあげること。
ここに書いたことで何かしら役立ててもらえるところがあるのなら、幸いです。
少し補足することとして、人から下に見られていると感じるようなこともあるかと思っています。基本的にはその相手に同調しないこと、がカギなのですが、そのあたりのことを掘り下げた記事がありますので、参考にしてもらえればと思います。
もう一点補足することとして、相手から利用されているように感じることもあるかと思っています。いい人や優しい人にとって、誰かから頼られるような状況というのもあると思うのですが、そこでちょっと無理をして相手に合わせるような感じだと、「利用されている」と思えることもあると思います。そういったときのことを掘り下げた記事がありますので、参考にしてもらえればと思います。



















