自分にとって身近な人や、何か甘えをぶつけ易い相手に対して、わかってくれて当たり前、という気持ちは出てきやすいものかもしれません。
ただ、この気持ちがあるときに、相手がいまいちわかっていない感じだと、イライラしてしまうこともあるかもしれません。なぜわからない、という不満を感じたり、そこで相手に文句の一つも言いたくなったりするかもしれませんね。
わかってもらって当たり前、というのは状況によっては、相手の問題というよりも、自分の心の甘えという見方もできることもあるかもしれません。例えば、そのことについて相手にとって理解しやすいような伝え方ができていなかったり、そもそも全然コミュニケーションできていなかったり、自分にも至らない点や、もう少し相手に寄り添えるようなことも、改めて考えると出てくるかもしれません。
ただ、このとき、自分の心の中に甘えのようなものがある、と思うのではなく、自分は正しくて、わかってくれない相手が悪い、と心理的には感じやすくなると思いますので、自分の甘えを聞いてくれない相手を変えようという気持ちが働きやすくなります。ときにそれがきっかけとなって、相手との間に衝突が起きることも。
力関係が明確にあり、自分の方が相手よりも立場が強いような場合や、相手がわりとこちらの言い分を聞いてくれる感じの場合は、衝突が起きるというよりも、相手が一方的にそこを飲み込んで対処をしてくれることで、一見うまく回っているかのような状態になることもあります。その場合、知らずのうちに、相手に無理をさせていることに気づけないこともあるかもしれません。
例えば、子供と接していると、親に対する甘えの気持ちとして、
「どうしてわかってくれないの?」
という態度で気持ちをぶつけてこられることがあります。子供の立ち位置から見ると、私の(僕の)ことがわかってくれて当たり前、と思っていたら、まったく気付いてくれなかったり、無視された、というように感じるので、そこから、親に怒りをぶつけたり、不機嫌になったりするような感じです。
親も完璧な人間ではないですし、他のことに気を取られていることもありますので、いつまでも、子供のことを王様扱い(もしくは赤ちゃん扱い)はできないのですが、子供は、自分のことでいっぱいいっぱいなので、そこまで気がまわりません。
こういうのをみていると、自分も同じようなことをやっているときもあり、「わかってもらって当たり前」と感じていて、そこで怒りを感じるような部分というのは、ある意味では、精神的に幼い部分、といえるものかもしれない、なんて思っています。
ただ、これは自分でも気づきにくい部分かもしれません。身近な相手との間に、よくぶつかる部分があったり、腹が立つことがあったとしたら、自分の中に、そういった、わかってくれて当たり前、と思い込んでいるような部分がないかチェックしてみると、意外な気付きがやってきます。
自分は当たり前だと思っていて、いつも相手を責めている部分。実は、自分の甘えの部分、言い換えると、相手の問題ではなく、自分の課題だったんだ、ということに気付けるようになると、自分が欲しいものに関して、相手に当たり前のように要求を突き付けるものではない、というふうに考えることができるようになります。
相手にわかってもらいたいことや、やってもらいたいことは、コミュニケーションが求められる部分です。相手に理解してもらえるような伝え方を意識してみるのも良いかもしれません。相手がわかっていないというより、相手がいまいち乗り気じゃなくて、あまりこちらのことを考慮するつもりがなさようなポイントに関しては、相手ができるだけ乗り気になるように頼み方を工夫してみたり、相手がどこにストレスを感じているのかを、こちらが理解していこうとすることで、状況に変化を招き入れていくこともできます。
問題が解消されて当たり前というより、相手の都合もあるので、わかってくれていなかったり、わかってくれようとはしているのだけれども、少しピントがずれていたり、なんてことがあるのが当たり前、と思えるようになると、相手に対する働きかけ方も変わってきます。
コミュニケーションに問題があるところは、どちらが悪い、というよりも、お互いの改善や工夫が求められるところです。どっちが悪いから、悪いところを直すべき、という考え方をしていると、わりと行き詰まるので、やめておいた方がいいかも、なんて思っています。
わかってくれて当たり前、と感じているときのことを私なりに掘り下げて書いてみました。わかってくれて当たり前のことが、なんでわかってくれないんだ、という怒りを身近な相手に持っている場合、自分の中に、何か甘えの部分がないか、チェックしてみるのもおすすめかもしれません。その中に、自分がより成熟できるヒントが隠れています。
ここに書いたことで何かしらお役に立てるところがあるのなら、幸いです。