争いごとのようなものがあったり、ケンカのような状態になるかもしれないようなとき、自分が本当はどうしたいのかは置いといて、相手が気にいるような返しをするのが癖になってくると、相手にとっても、それが当たり前になっていきます。
例えば、みんながやりたくないことや、誰もが嫌がるような仕事が自分に回ってくるようなことがあっても、自分以外に誰もそれを問題と感じず、誰からも感謝もされない代わりに、自分の心だけがどんどん疲れていくようなパターンが続くこともあるかもしれません。
誰かのために何かをして、それを喜んでもらえる、というのは価値のある行為かもしれません。ただ、周りに自分が利用されているだけで、自分だけが苦しんでいるという状況になってしまっているとしたら、それはあまりバランスが良い状態とは言えないです。
私は自分自身を大切にしているだろうか?
そう自分に問いかけたときに、Yesと言えないのなら、いい人をやめる、ということも考えた方が良いかもしれません。自分の本音の部分からやりたいことをやっているというより、本音とは違ういい人という偽りの仮面を被っているがために、自分自身が苦しさを感じているとしたら、一旦、その仮面は手放すことが求められてくるかもしれません。
本当はやりたくないと思っていることはあるでしょうか?
やめた方が良いとおもっているけれども、なんとなくやめられていないことがないでしょうか?
これらの問いを自分自身に投げかけてみたときに、何か直感的にでも思い当たるところがあるのなら、その部分は一度見直してみた方が良いところです。
ときに自己犠牲が求められることはあるものかもしれません。ただ、それはあくまで選択肢の一つに過ぎないものです。他の選択肢が見えていなくて、いつも犠牲をすることばかりを選択することが癖になってしまっているのだとしたら、楽さや自由さといった要素を、自分自身の手で遠ざけていることになります。
自分だけが無理をして、相手は居心地よくしている、という偏りのあるところから、自分にとっても相手にとっても居心地の良い状態を目指せるとしたら、まず、自分がどんな風に変わった方が良いと思えるでしょうか?
例えば、もう、頑張らなくてもいいよ、とか、ありのままのあなたでいいよ、ということを言われたいような気持ちがあるのなら、ありのままの自分でいる、ということが何かのヒントになる人もいらっしゃるかもしれません。いい人の仮面をかぶるのではなく、自然体の自分でいることは犠牲を手放すことにつながっていきます。
今、あなたにとって、自己犠牲よりも優先した方が良いと思えるものがあるとしたら、それは何でしょうか?
今までやってきたパターンと違うことをするのだとしたら、ただ、その自己犠牲を手放すだけではなく、代わりに受け取るものを選択することが求められてきます。誰かのためではなく、あなた自身のために、どんな変化を受け取るのが良いと思えるでしょうか?
犠牲をすることに疲れた時、その疲れたという心の声は、あなたにとって、選択を切り替えるタイミングが来たということを教えてくれている心の内側からのメッセージのようなものです。そのメッセージは自分自身を変容させるための一つのきっかけにすることができるものです。それはある意味において、自分がやりたいと思えることや、価値があると思えることを優先してあげれるように、自分自身を変えるチャンスにしていくことができるものです。
もしかしたら、そこには勇気が求められることもあるかもしれません。今まで、いい人の仮面をかぶることでうまく回っていた部分を一旦手放すことになったり、慣れていたやり方を変えることに怖れや抵抗感を感じることもあるかもしれません。
ただ、自己犠牲にパワーを費やしていたところから、自分が本当にやりたいと思えることや、価値があると感じることに自分自身の力の向き先をシフトしていくことで、今までよりもより良い体験を受け取っていくことができるようになります。
いい人でいることに疲れた時、その部分を変えていくことにチャレンジしてみるということを、あなたにとっての選択肢の一つに含めていただければ幸いです。