例えば、母親がとても厳しい人で、幼いころからとてもつらく当たられた経験があったとして、それについて、母親に対して、怒り、のようなものを感じている女性がいる、とします。そこでこの女性は自分の母親のことを反面教師のように扱って、私は絶対にあんな母親にはならない、と思ったとします。
ところが、人間だれしも完璧ではないので、24時間365日、常に良い親ではいつづけるというのは、とても難易度が高いミッションです。精神的にいっぱいいっぱいになって、ついつい自分の子供に対して、今まで否定してきた自分の母親と似たような接し方をしてしまう、ということがあります。
お子さんをお持ちの方でこれと似たような経験をされて、
「私、お母さんと一緒じゃん!、何やってんの私!」
なんて思ったことがある方も、もしかしたらおられるかもしれませんね。親から受けた良い影響だけ子供に与えて、悪い影響は子供にいかないようブロックしたいものかもしれませんが、なかなかそうもいかないことがあります。
ただ、自分の親のことを心の中で強く責めていると、その度合いだけ、自分自身が同じようなことをしてしまったときに強い罪悪感を感じることになります。ある意味では、自分が親に対してかけていた「おまえは最低の親だ」という恨みつらみが自分自身にはね返ってくるようなものかもしれません。
間違ったことをしているのだから、その人が反省するのは当たり前だ!、と思うでしょうか?自己攻撃に浸るのもその人の自由なのですが、罪悪感というものは取り扱い方によっては、自分自身の心を押さえつけるだけではなく、他の人との関わりに悪影響を及ぼすようなところがあります。自分のことを責めれば責めるほど、心に余裕はなくなり、子供との関係が行き詰ります。罪悪感で心が満たされて、今、お母さんいっぱいいっぱいだから、あなたにやさしくできないの!、なんて内心思ったことがある方もいられるかもしれません。
子供を通して自分自身を見せられている、そんな風にも思います。子供との関係の中で、自分がどうしても受け入れにくかったり、否定したくなる部分があると、それは自分自身に跳ね返ってきます。
例えば、子供がやるべきことをやっていなかったとして、それに怒りを感じたとします。ごはんを食べない、服を着ない、おもちゃを片付けない、歯磨きしない、手を洗わない、風呂入らない、大声で叫ぶ、暴れる、すぐ泣く、食べ物で遊ぶ、わがままを言う、生理的な問題を起こす(オブラートにつつんでみました)、まあ、いつもそんなことばかりするという訳でもないですが、子供というのはまあ色々とやらかしてくれます。私はそんな子供の一面も嫌いではないですが、対応するのに疲れを感じるときもあります。
親としては、子供がちゃんとするように誘導したり、あえて厳しく叱ったり、放っておいたり、言い方をちょっと変えてみたり、まあ、あれやこれや工夫すると思います。ところが、いつもいつもそういうわけにもいかないので、ときには、我慢できなくて、子供を育てるというよりも、何か感情的になって、爆発するということもあると思います。
もし、そこで少し冷静になるタイミングがあれば、一つ、こんな風にも考えてもらえれば、と思うことがあります。それは、この子は私に何を見せてくれているのだろうか、という自分自身への問いかけです。
子供に対してかける言葉は、それは優しい言葉であれ厳しい言葉であれ、自分の内面の未成熟な部分や弱い部分にも同じように響いています。子供を叱った言葉は自分にも縛りを生みますし、子供にぶつけた怒りは自分に跳ね返ってきます。子供を愛そうとした度合いだけ自分の内面に慈愛の感覚があふれ、子供を愛しいと感じているとき、この子の親で良かったという感覚が心にあふれます。
自分の親との関係性の中でクリアにできていなかったものが、子供との関係でも出てきているのであれば、子供との関係の中で、今、その課題のようなものに取り組むことが求められています。子供が自分に見せてくれているものは、ある意味では、もう一度そこに取り組むチャンスであり、子供からの贈り物、といえるものかもしれません。
子供を愛しいと思える度合いだけ、そこに取り組むためのモチベーションは高くなります。親との関係では、今更、と思えることでも、子供に関しては、まさに今起こっている問題。時間がかかるかもしれませんし、思考錯誤をくりかえすことになるかもしれませんが、人生においてその意欲を持つことには、非常に高い価値があります。
親も人間ですから、何事にも完璧というのは無理かもしれませんが、そうだとしても、子供と一緒に自分の未成熟な部分を成長させていくことはできます。
私自身、そういった子供からの贈り物を、抵抗せず受け取っていこうと思っています。