条件が満たされたら愛する、とか、気分が良かったり褒められるようなことがあった時だけ愛する、といった条件付きの愛情。無条件の愛情とセットで語られることもあるもので、褒められるようなことをした時だけ愛されて、そうじゃない時は愛されない、とか、親の言うことを聞いた時だけは愛されて、そうじゃない時は愛されないといった感じのものです。
親からどんな風に愛されてきたでしょうか?
親から子供にはたくさんのものが与えられます。ここまで育ててもらったこと、教えてもらったこと、注いでもらった愛情など、感謝できるものもたくさんあると思いますが、その中でも、条件付きの愛情は扱いがちょっと微妙なものかもしれません。
条件付きでしか愛されなかったとしたら、自分が親から愛されているかどうかについて不安を感じることもあるかもしれません。子供の頃には愛されるために一生懸命だったとしても、いつしか、そんな愛情の与えられ方に反発を感じるようになり、親を反面教師のように扱う方もおられるかもしれませんね。
条件付きの愛情で育てられて、そのことに不満を抱えていたとするのなら、自分が同じことをしてしまうのを避けたい気持ちは出てくるかもしれません。ただ、条件付きではないと愛されない、という思考が自分の中で定着すると、親以外との人間関係の中でも、私はこれをしているから愛される、とか、これをしていないと私は愛されない、という感覚を抱きやすかったり、相手からの愛情を受け取りにくかったり、パートナーから愛されているかどうかに不安を感じやすくなったりします。
ちょっと極端ですが、恋愛のケースでいくと、例えば、顔がいいから愛される、とか、お金持ちだから愛される、といったように、XXだから愛される、という思考をしていると、本当に愛されているのは自分ではなく、条件、のように感じる時があります。顔が良ければ誰でもいいのだろう、とか、お金さえ持っていれば別の人間でも良いのだろう、など、XXであれば自分でなくてもいいのだろう、と思えてくると、相手からの愛情を受け取りにくくなります。
条件付きの愛情。自分がXXするから愛される、と思い込んでいると、それは行動や態度に出てきます。相手に対して、君は私がXXすれば私を愛し、私がXXしなければ君は私を愛さない、と考えているのが雰囲気や言動に出てしまうと、あなたのことをよく見ている相手に、それが伝わります。相手も実際にあなたのことをそう扱っているのであれば、両者ともわかってやっているようなもので、ある意味ではお互い様と言えるかもしれません。ただ、もし、条件とか無関係にただただ本気であなたのことを心配していたり、あなたのことを本気で大切にしようとしている人からすると、そのあなたのありようというのは、ある意味では失礼というかなんというか、あなたは相手のことを全然わかっていない人になります。
無条件にあなたを愛してくれる人。条件付きで愛されることが当たり前になっている人にとっては、かけがえのない存在になり得る人。無条件に自分のことを愛してくれる人がいてくれることで、自分は無条件に愛されていい存在なんだということに気づくチャンスがそこにあります。ただ、もし、自分が愛されているということに気づくことができずに、無条件に与えられている相手からの愛情を受け取ることができないとしたら、それは、なんだか寂しげな状況です。
次に、条件付きの愛情をもらう側ではなく、与える側の視点で見てみます。条件付きで誰かを愛するということを、自覚があるにしろ、無自覚にしろ、もし仮に、あなた自身が行ったらどうなるかというと、その場合、条件に合致していた間は相手を愛していたのにもかかわらず、相手がその条件に反した瞬間にあなたの態度が変わることになります。その相手は、愛するパートナーであったり、自分の子供だったりするかもしれませんが、そこではお互いがネガティブな感情を感じたり、意見が衝突するようなことも出てきます。
条件付きの愛情を与えていた側は、条件に反した相手が悪いと考えるかもしれません。条件とかどうかという話ではなく、相手がなんでそんなことをするのかわからない、という怒りを感じている状態になるかもしれません。それを突きつけられた相手は、そんなことで責められても意味がわからない、と思ったり、そんな愛し方はいらない、と思ったり、裏切られたように感じたり、あるいは、あなたに嫌われたくないあまりに、何らかの想いを胸に秘めながらも我慢をして条件に合うように、あなたに愛されるように頑張るのかもしれません。これもまた、なかなかに辛い状況です。
条件付きでしか愛されない、あるいは、条件付きでしか愛せない、という思考に自分自身がとらわれている感じがあるのなら、条件付きの愛情に関しての自分自身の思考を手放すことが大切になってきます。
親からどんな風に愛されてきたでしょうか?
あなたにとって大切な人から、どんな風に愛されてきたでしょうか?
その中で、愛されるということや、愛するということに関して、あなたは心の中にどんな想いを抱いてきて、愛に関してどんな思考を持つようになってきたでしょうか?
もし、今あなたに、愛するパートナーや愛する子供がいるならば、そしてもし、条件付きの愛情に関しての自分自身の思考を手放していきたいという想いがあるならば、条件を手放して愛情を送るということと、相手から無条件に与えられる愛情を受け取るということに、コミットをすることが求められてきます。
コミットというのは、全力で取り組む、といった意味合いの言葉ですが、心理というよりビジネスシーンでよく使われる言葉かもしれませんね。必ずやり切ると決意する、とか、本気になる、といった感じのものです。
長い間自分自身を縛り付けてきた、条件付きの愛情に関してのネガティブな思い込みや、無条件に愛されるということへの不信感や抵抗感を乗り越えて愛する人と繋がるためには、コミットする、という部分がとても大切になってきます。
条件付きでしか愛されないと思い込んでいた人が、無条件に自分のことを愛してくれるということを信頼しようと思ったら、怖さ、のようなものを感じることもあるかもしれません。もしかしたら、条件というのは、自分の身を守るような役割があったのかもしれません。自分はXXだから愛される、と思っている人にとって、XXだから愛されるから大丈夫だ、といった、、、、ある意味では、保険というか、愛されるための保証のようなものが、XX、にはあったわけです。このXXに寄りかかることなく、ただ単に無条件に自分のことを愛してくれる、ということに、別の言い方をすると、相手の無条件の愛情に自分の身を委ねるというのは、XXにずっと寄りかかってきた人にとっては、恐怖体験です。ここでは、勇気、のようなものがいります。そのためには、コミット、が求められてきます。
無条件の愛情を受け取る、というだけではなく、自分からも相手に与える、ということも考えてみてください。人間なので完璧にはできないですし、そもそも、完璧にはできなくても良いもの、と私は思っています。私も完璧にはできてないです。あんまり自覚されることもなく「こういう風にしてくれないとあなたを愛そうという気持ちになんてなれないよ!」なんて拗ねている依存的な部分が、心の中に隠れていることもあり、それが条件付きの愛情、みたいな振る舞いをすることもあります。ただ、そういったものも、そのことに気づいたときに、その都度そっと手放してあげれば良いもの、と私は思っています。もし、自分が相手に条件のようなものを突きつけていると気づいたら、その条件を手放して、ただ愛するということを選択する、ということの繰り返しなのかなあ、と私は思っています。
このブログの中で、愛する人とコミュニケーションをするときには、自分の痛みではなく、相手の痛みをみる、なんていうことを何度か書いています。これを実際にやってみると、その瞬間、とりあえず自分のエゴの部分はぽいっと捨てて、相手のことだけを考える、別の言い方をすると、相手にどう愛情を送るのが良いのかということだけに意識を集中する、という感じの意識になります。自分がいっぱいいっぱいの時ほど、相手の痛みをみることが求められますが、そういう時ほどそれができないと、ついつい自分の痛みに目がいって、相手の話が心に入ってきません。このエゴの部分をぽいっと捨てるときに、一緒に条件のようなものもぽいっと破棄されます。
条件付きの愛情に関して、私なりに嫁や子供とのやりとりも思い起こしながら書いてみました。愛というのは語るものではなく、ただ感じて、ただ実行するものかもしれません。いろんな考え方があると思いますし、愛する人との人間関係の中で、求められてくることや、問われてくることも色々とあると思っていますが、無条件に人を愛するということは素晴らしいことだと思っています。無条件の愛情を受け取るということや、与えるということは、人が行う営みの中でも非常に価値の高いものだと思っています。
ここに書いたことで、何かしらお役に立てられることがあるのなら、幸いです。